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2020年6月14日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「安心しなさい」

2020年 6月14日(朝・夕)礼拝説教「安心しなさい」マルコによる福音書6章45~56節

聖書―マルコによる福音書6章45~56節
(はじめに)
「イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ・・・」(45節)。このような言葉から今日の聖書の箇所は始まります。「強いて」、強制的ということです。皆さんはおそらく今ここにいるのは、つまり、神さまを礼拝するために教会に来たこと、あるいはイエス・キリストを救い主と信じたこと、それらのことは何も強いられてのことではない、誰かから強制的にさせられたことではない。そのように思われるかもしれません。そうではなくて、このことは自分で考えて、自分で選び取ったこと・・・。
私も人に強いて、強制的に信仰のお勧めをしたことはありません。イエスさまをご自分の人生の救い主として受け入れてみたらいかがでしょうか?そのように言うことはあります。その言葉の背後には、ぜひ、イエスさまを受け入れてほしい、信じてほしい。そういう思いはありますが、受け入れなさい、信じなさい、とは言いません。なぜなら、それはご自分で決断すること、決めることだからです。
しかし、私たちは時に、何かに強いられて、というようなことがあります。自分の意志ではないのだけれど、何かに、誰かに強いられて、というようなことがあります。これは皆さんにとっては、例えば、ご家庭の中でそういうことがあるのではないでしょうか?お仕事においてもそういうことがあるのではないのでしょうか?そう考えると、私たちの人生というのは自分の意志、考えだけでは進まない。むしろ、自分の外側から強いられて、それによって、自分の意志、考えを変えられていくようなことがある、ということばかりではないかと思うのです。今回の新型コロナウイルスのことでもそうです。皆さんにとってこの二ヶ月程の間は例えて言うなら、口に合わない食事を食べなければならないような毎日だったのではないでしょうか。そのようにして、私たちは生活のスタイル、あり方を変えられるようなこと、見直しをさせられるようなことをしてきたのではないでしょうか。

(聖書から)
イエスさまが弟子たちを強いられた。そこから、お話しをいたしましたが、もう一度、45節から読んでみます。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせ、その間に御自分は群衆を解散させられた。群衆と別れてから、祈るために山へ行かれた」(45、46節)。先週の礼拝では、イエスさまが男性だけで五千人、女性、子供を合わせるなら、相当な数の人々にパンと魚を食べさせ、満腹させた、という聖書の箇所を読みました。その出来事のすぐ後ということになります。イエスさまは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸のベトサイダへ先に行かせた、ということです。そして、ご自分は集まってきたあの大勢の群衆を解散させ、祈るために山へ行かれました。
イエスさまが弟子たちに強いられたこと。私が福音書から知るイエスさまは弟子たちに強いるようなことはあまりなさらなかったように思います。すると、イエスさまはこの場面では、弟子たちに何か特別なことを教えたかったのでは、お示しになりたかったのでは、と思うのです。弟子たちは大勢の群衆がパンと魚を食べることができた、という奇跡をその目で見ました。自分たちもイエスさまからパンと魚を渡され、人々にそれを配るという体験をしました。私たちは神さまのみわざをこの目で見た!弟子たちにとっては忘れることのできないことだったと思います。そういう弟子たちに主はすぐに舟に乗るように強いるのです。47節からお読みします。
6:47 夕方になると、舟は湖の真ん中に出ていたが、イエスだけは陸地におられた。6:48 ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた。
弟子たちの舟は湖の真ん中に出ていた、ということです。しかし、彼らは逆風のため、漕ぎ悩んでいました。イエスさまの言われるとおりに従った。しかも強いられて、そうしてみたら、逆風であった、というのです。あのパンと魚の出来事、あの嬉しい出来事の直後にそれとは正反対のことが起こっているのです。
私たちはもしかしたら、イエスさまに従って生きるというと、ああ、これからの人生はバラ色だ、というふうに考えるかもしれません。嬉しいことばかり、自分にとって良いことばかりを期待する。ところが、私たちの現実というのは、湖の上の舟に乗る弟子たちと同じようです。逆風のようなことが次から次へと起こってくる。ここで48節をご覧いただきますと、「ところが、逆風のために弟子たちが漕ぎ悩んでいるのを見て」とあります。イエスさまは逆風に悩む弟子たちを見ておられました。そこでイエスさまは夜が明ける頃、湖の上を歩いて弟子たちのところへ行かれます。そのことについて、こう書かれています。「夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされた」。
「そばを通り過ぎようとされた」。通り過ぎるというと、イエスさまは弟子たちが悩む様子をちらっと見て、そのまま通り過ぎてしまわれたのか、そんなふうに思うかもしれません。この「主が通り過ぎる」ということについて、旧約聖書を見てみますと、出エジプト記33章22節には「わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、私の手であなたを覆う」とあります。これはモーセが神さまに、あなたの栄光をお示しください(出エジプト 33章18節)と言ったとき、神さまがモーセに語られた言葉です。もう一箇所は列王記上19章11節です。「主は、「そこを出て、山の中で主の前に立ちなさい」と言われた。見よ、そのとき主が通り過ぎて行かれた」。神さまが預言者エリヤに語られた場面です。
神さまが通り過ぎた。それは神さまがご自分を現わされたことを示しています。逆風に悩む弟子たちの前に主はご自分を現わされたのです。彼らは何のことだか分からなかったため、イエスさまのことを幽霊だと思った。つまり、そこにおられるのがイエスさまだとは気づかず、信じられず、大声で叫んだ(49節)というのです。そういう彼らに対して、50節には「しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた」とあります。主は「安心しなさい」と言われるのです。なぜなら、私があなたたちと共にいるから恐れることはない、というのです。
順風の時は、私の人生、順調に事が進んでいる。何もトラブルも無い。それは神さまが私を愛している証拠だ。神さまが私と一緒におられる証拠だ。私たちは目の前の出来事から、私たちに対する神さまの愛を測ったり、神さまが一緒にいると考えたりするのではないでしょうか。ですから、その反対のことがあると、逆風が吹くときには、神さまは私を愛しておられないから、神さまは私を見放しておられるから、こんな試練に遭わせるのだ、と考えてしまうのです。
しかし、ここで知らされることは、湖の上で逆風に悩む弟子たちのところに歩いてこられ、語りかけておられるイエスさまです。苦しみ、悩みの中にあるあなたのところに私はいる、一緒にいる。あなたにとって良い時も、悪い時も、私はあなたと一緒にいる。主が彼らの舟に乗り込まれると、風は静まりました(51節)。主が彼らの舟、彼らの人生に入って来られたら、風は静まったというのです。
52節には「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」とあります。主の弟子たちはイエスさまがパンの出来事、神さまのみわざを行われたのに、その意味を理解していませんでした。何を理解していなかったのでしょうか?ひと言で言うならば、主を信頼して生きるということです。この方こそはパンと魚を与えてくださる方、すなわち、生きるために必要なものを与えてくださる方、私たちの苦しみの時、悩みの時も、一緒におられる方。主がどのような方であるのかを知り、この方を信頼して生きるのです。

(むすび)
この後、53節以下にはゲネサレトという土地での出来事が書かれています。そこでイエスさまは病にある人たちを癒やします。この箇所については深く触れませんが、二つのことをお話ししたいと思います。一つは、イエスさまは弟子たちをベトサイダへ向かわせましたが、到着したのはゲネサレトという別な土地でした。先ほど、逆風があったことが書かれていましたが、私たちの人生も時に逆風が吹きます。そして、自分が目指していたところ、目的地と思っていたところとは別なところに行くようなこともあります。しかし、そこでも主は神さまのみわざを行われるのです。
もう一つのことですが、弟子たちはパンの出来事を理解できず、心が鈍くなっていた、とあります。それは弟子たちだけでなく、パンと魚に与った群衆も同じだった、と思います。またゲネサレトで癒やされた人たちも同じだった、と思います。そして、私たちも同じではないでしょうか。心鈍く、イエスさまが言われたこと、行われたことを見ても、聞いても、理解しない。それでも主は私たちに恵みを与え続け、語り続けておられるのです。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」。私はあなたと一緒にいる、と何度も語っておられるのです。
強いられて、ということから、今日はお話ししましたが、「恵みの強制」という言葉があります。それは神さまの恵みを本当に知ったなら、「私はイエスさまによって罪から救われて、新しい人生を生きる者とされた!」その恵みを本当に知ったなら、その人は心の内にある神様の恵みの喜びに押し出されて、自ら神さまを愛すること、神さまに従うことに励むようになる、というのです。主はそのことを待っておられるのです。私たちのことを祈っておられるのです(「祈るために山へ行かれた」46節)。私たちは神さまの恵みに強いられて、押し出されて生きる者でありたいと思います。

祈り
イエス・キリストの父なる神さま
主は弟子たちを強いて舟に乗せ、湖へと送り出しました。それはどんなときも主が一緒におられることを知るための試みでした。
主は今も私たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と語られます。けれども、イエスさまが幽霊のように見える。主がおられるはずはない、と思えることもあるかもしれません。しかし、主は私たちに語り続けてくださり、一緒にいてくださいます。
どうか、私たちの心が開かれて、この方が一緒におられることを信じて、歩む者とさせてください。主の恵みに気づかせてください。それによって私たちの内側が日々、新しくされていきますように。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン

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